5時間7分、3時間57分、4時間2分、4時間6分、4時間11分、4時間12分、3時間39分、4時間32分、4時間15分。
 これは過去十年の優勝タイムである。極めて大きなばらつきがあるが、だからといって決して草レースではない。毎年1万人以上が完走する世界最大、世界最古、世界最長のスキーレース「Vasaloppet」の記録だ。第1次大戦直後の1922年に、当時としては常識はずれの90kmという距離で始まったこのレースは、スヱーデン初代国王「Gustav Vasa」の独立運動のドラマをそのままレースにしたもので、欧州の距離スキーヤーの究極の目標でもある。
 今から五百年前、スカンジナビアはデンマークによって統一されていた。当時のデンマーク王クリスチャン2世はスヱーデンに対して圧政を敷いており、それに対抗してスヱーデンも断続的に独立運動を繰り返していた。貴族グスタフ・バーサもその一人で、現に彼は政治犯の息子としてデンマークに囚われていた。その彼が脱獄したのが1520年である。それから約2年間、デンマークからの指名手配をかわしながらスヱーデン内を駆け回って独立闘争を呼びかけた。しかし度重なる戦いに飽きた民衆の反応は鈍い。一方でデンマークの捕吏の網は次第に狭められていく。仕方なく身を潜める前の最後のチャンスとして向かったのがスヱーデン中部の町モーラである。だが、そこでも反応は鈍かった。捕吏は迫る。一刻の猶予もない。ついに諦めてノルーヱーに向けて逃亡しなければならなかった。
 グスタフ・バーサが失意のうちにスキーで逃げ始めた後、モーラの民衆は後悔してもう一度話し合った。彼を指導者と仰いで独立運動を再開すべきではないかと。そうして、ついに再決起することが決まったのである。この吉報をグスタフ・バーサに伝えるため2人の伝令使 …町で最もスキーの速い2人 …が彼のあとを追った。冬の道は長い。90キロ離れたセーレンという村でやっと追い付き、そこから3人でモーラの町に引き返して、そのままスヱーデン独立運動に突入した。1522年の春の事だ。翌15 23年にグスタフ・バーサが初代国王に選出され、北方帝国スヱーデンの歴史が始まった。ドイツ30年戦争の立役者グスタフ・アドルフは彼の孫に当る。
 それから四百年目の1922年。スヱーデン独立史にとって重要な点火を記念して、全く同じコースのセーレン・モーラ間でバサロペット(=バーサのレース)が開かれるようになった。第1回の参加者は百人余り。
 第2次大戦中も毎年百人前後の参加者を集めた続けたこのレースは、戦後徐々に大きくなり、特に1960年代には参加者が千人から1万人近くにまで膨れ上り、さすがに1日で処理しきれなくなって1979年からは数日に分けてレースを開催している。3月第一日曜日のレースを「本番」として、あとは「オープン ・スポール」と言う。そのうち「本番」ともなると9ヶ月前に参加定員の1万5千に達して登録が締め切られる。まったく、優勝タイムが4時間以上かかるようなレースにそれだけの参加者が殺到するのだから、バイキングの子孫はどこか違う。
 その「Vasaloppet」をついに滑ってきた。
 1万5千人というと、ランニングのレースでも大変だが、「長さ2mの板で溝の上を滑る」スキーとなると更に大変である。僅か6組しかないスキー溝(track)の上を、各スキーヤーが最低4m占有する(=前の人との間隔が最低2m)のだから、単純計算で各列2500人、長さ10キロの行列となる。もちろんスタート地点には50組余りのスキー溝が敷かれてはいるが(そこに各溝約300人ずつ並ぶのだから、これは「地点」というより「フィールド」だが)、それが1キロ先の丘で一気に6組に減ってしまうのである。急な登りと溝数の急減で大混雑(或いは乱闘)となり、タイムも体力も大きくロスしてしまう。最後尾に至っては1時間近いロス(先頭はおそらく20キロ先)を覚悟しなければならない。こうなるとスタートの位置が問題である。「溝」というハンディーで追い越しが大変だから、日本のランニングレースみたいに「遅い人間が前に並んで」は話にならない。そこで過去1〜2年のスキーレースの成績を元に速い順にスタートポジションを第0組シード、第1組シード、第2組シード、、第11 組(各組の中では自由に並ぶ)と分けて、混乱や不公平を出来るだけ減らしている。
 私のスタートは当初の書類では最後尾の第11組だったが、昨年3月の地元キルナでのレースの結果がひと月前に認められて第3組シードへ編入となった。これは昨年1001位〜2000位にゴールした連中と、その後の40キロ以上の公認レースでそれに近い結果を出した連中の組である。これで上位のスタート位置は確保されたが、だからといって安心は出来ない。早起きしないとスタート位置が1000番ほど違ってくるからだ。この差は決して無視できるものではない。そこで、みな朝早くから並ぶ。現に私は朝5時に宿(=ゴールの近く)を出て6時半過ぎにはスタート地点に到着したが、スタート1時間以上前だというのに第3組のスタートエリアはほとんど埋ってしまっていた。それでもシードは有難い。お陰で1キロ地点の丘でのロスが10分あまりですんだのだから。
 シードの位置は実力を表わしている。当然、万人の目標がより上位のシード権獲得(私の場合は第2組シードへの昇格=1000位以内ゴール)であり、最低でも現シードの確保(私の場合は2000位以内ゴール)となる。
 このレース、当然ながら知名度も抜群で、5歳以上のスヱーデン人なら誰でも知っている。スヱーデン人にばかりか世界的にも有名で、参加者の6分の1が外国人だ(約30ヶ国から参加)。そんなマンモス国際レースが日本にある筈もなく、いわば日本の国際マラソン(福岡、琵琶湖、別府、東京女子、東京、大阪女子、北海道、ホノルル)を全て足し合わせたようなものといえよう。私もスヱーデンに来るや、即座に「いつ参加するのか」と同僚たちに問われたものだ。そんなレースがあると知って出ないような私ではない。実は7年前に一度だけ滑っている。
 スヱーデンに来て4冬目の1994年、年々高じてくる内外の圧力に「さすがにそろそろ出なくては…」と思って参加したが、旧式の3つ穴スキーに着替え食料入のリュックを背負ってという、レースというより寧ろツアーのいでたちで滑ったら(リュックはともかく、旧式三つ穴スキーで参加したのは1万5千人中、私一人だけだった)、たまたま気温が+4度という異常暖波だったのが災いして(しかも前日までが−20度の寒波だったので、氷点以上向けの滑り止めワックスを一切持たなかった)、実力より2時間以上遅い9時間44分のゴール(約11000位)で、ただただ、休みの度に「あまり効かない」ワックスをせっせとかけていた事と(ワックス掛けだけで正味55分のロス)、にもかかわらずワックスが全然効かずに登りで難儀したことしか覚えていない。しかも8時に始まるそのレースの為に3時半起き4時半宿発で、レースの翌日は朝7時出発午前2時キルナ着の19時間バスの旅という、まったくスキー以外のところですっかり疲れ果てて「こんな遠いところのレースなんか二度と出るものか」と思ったものだ。
 でも、5年たって冷静に考えて見たら、「二度と …」の結論は単にレースの成績が悪かったからに違いなく、ある程度の成績が狙えるなら話は別だろう。そういう自信のついたきっかけが昨年3月に私の住む町で開かれた距離スキー世界マスターズ選手権(スヱーデン最北の町キルナ市の市制100周年の一環として誘致された)で、これを機にキルナで買える一番高いスキー(といってもセットで僅か5万円で、しかもこれを持つと他の娯楽を一切しなくなるので安い買物である)を買って特訓したら、スキーが良かったのか練習が良かったのか、昨年春のレースはどれも成績がよく、この分ならバサロペットでもかなり行けると思ったのである。
 バサロペット参加のもう一つの理由が40歳になった事。体力の落ち始める歳になるまで『参加しない』大レースを残しておくと、40歳台でも年々『スポーツにおける Achievement感』を味わうことが出来て、まあ、一種の人生享楽病だが、その「人生の楽しみに残しておく」にふさわしい最右翼がバサロペットなのである。このレースに歳は関係ない。参加者の平均年齢が41歳で、私の勤める研究所のオバさんに至っては 50歳過ぎてから初参加して見事に完走している。私なんて若僧なのだ。ちなみに平均参加回数が5回で、中には49回も完走している人もいるという。安心してこの「最も由緒ある公認 Crazy レース」に7年ぶりに申し込んだ。それが昨年4月。ただしバス旅行はさすがにこりごりなので、交通機関は飛行機と汽車の乗り継ぎにした。それでも片道6時間かかるからスヱーデンは広い。
 スキーの90キロとは、相当に練習しないと完走できない距離である。特に、一定の成績(真中以上)を目差すならレース前に千キロは滑ろと言われる。当然、レースの前に成果が体力として現われる。私の場合もそうだった。1月に個人面談形式の「定期健康診断/労働環境チェック」に行ったが(スヱーデンではこれ専用の独立会社がある)、一番はじめの血圧測定の時に心拍数が49だったので、質問されるままに「バサロペットの練習をしている」と答えたら、それだけで普段の健康管理をすべて語るらしく、そのあおりで労働環境チェックはほとんど雑談になってしまった。バサロペットの練習をしていてストレスがたまる筈がないからだ。しかも他の人なら体力測定と称して自転車漕ぎで酸素代謝率などを測るべきところが、私の場合は「必要は全くない」とのこと。たしかに合理的な診断ではある。でも、とにかく他の人との比較が面白そうだとばかり遊びで試して見たところ、やはりスケールオーバーになってしまい、これがまさに「バサロペットの練習」という体力状態かとつくづく実感した。
 かように1月頭までは快調な練習をしていたが、そのあとが悪い。最後の最後まで寒波と風邪に悩まされた。
 昨年12月下旬以来スヱーデンは非常に寒い冬で、2月の平均気温は十数年振りの低さではないかと思われる程の、とてもスキーの練習に行けないような寒波の日々が続いた。でも練習しない訳にはいかない。仕方なく−20度の湿った寒波のなか土日毎に数十キロ滑っていたら、とうとう最後の3週間は風邪を引いてしまった。大会前々日も悪寒である。もちろん風邪といっても回復期ではあり、お陰で休養が十分にとれたので、それ自体は大きなマイナスにならないが、風邪を引いて困るのは体重が増えること。一体、スタミナレースというのはレース1週間前までに思いきり(ベスト体重マイナス1キロにまで)減量して最後の1週間に体重をベストに戻すというパターンが理想だが、今回は減量どころか体重が増え続け、予定を3キロもオーバーしてしまった。3キロの差は体力にはあまり関係なくても、スキーの滑り止めワックスに直接利く。というのも重ければ重いほどスキーと地面の接触圧力が高くなって、ワックスが剥げ落ちやすくなるから。スキーはぎりぎり有効なワックスをいつまで持たせるかが勝負なのだ。
 問題はそれだけではなかった。それはレースが始まってから現われた。前半20キロ地点で早くも腹筋が痙攣を始め、35キロ地点の第3給水所では左右とも完全につってしまったのである。我ながら信じられない。昨年春の55キロレースでは今回よりもっと積極的に滑ったにもかかわらず最後までペースを維持しているのだ。しかも今冬は昨冬よりも練習量が多い。とすれば、この腹筋痙攣は風邪の名残に違いない。バサロペットほどの超スタミナレースとなると、万全の体調でないといけないらしい。
 理由はともかく、ゴールまで55キロも残して腹筋が全く使えないという事態にはさすがに焦ってしまった。痛みの酷さときたら前屈みにすらなれないのである。常識的にはもちろん棄権だ。でも、せっかくの名物レース、そう簡単には敗退できない。わざわざ6時間もかけて飛行機と汽車を乗り継いで参加したレースなのだ。しかも7年ぶりの再挑戦である。あの臥薪嘗胆ですらたったの3年ではないか。とにかく前に進む。…この状態ですら我慢して滑り続けるあたりが公認 Crazy レースの Crazy たる処かもしれない。
 だが、どうやて滑るのか?
 スキーには4つ走法があって、速い順に、まず複合競技でおなじみのスケーティング、次がDouble Pollingといってスティックだけを使って手も足も左右対称に滑る言わばバタフライみたいなもの、3つ目がスティックを左右対称に使いながらも足を交互に滑り出すもの(シュノーケルを使った潜水みたいなもの)、最後が手も足も交互に出す普通の「歩く」スキーである。後の3つは溝の上を滑る『Classic Style』で、古典的なレースたるバサロペットはこのClassic Styleで滑らなけらばならない(さもないと狭いコースに1万5千人も処理出来まい)。
 腹筋のつった後は、一番遅い「歩く」スタイルのみが辛うじて可能である。前屈み禁物だから下りですら突っ立ったまま滑り、空気抵抗をもろに受けて次々に抜かれる。せっかくスタート直後の「混乱ヶ丘」からここまで200人近く抜いた頑張りも水の泡、第3給水から第4給水(48キロ地点)までに150人ほどに抜かれ、しかもそこで腹筋がどうしようもなくなってとうとう6分を休みを取った。休みといってもワックス掛けを頼む間に着替えをしただけだが(スタート時の−20度がいつしか−5度近くにまで上がり、ワックスと着替えと両方必要となった)、その間に300人近くに抜かれてしまった。順位への緊張が一気に砕ける。ちなみに給水所のワックス・ステーションでは、ワックスのプロたちがワックスを1〜2分で塗り直してくれる。自分でワックスを塗り直すよりはるかに速い。もちろん、いくら手早いプロ連中でも、希望者が多ければ待たされる事になり、実際7年前は長蛇の列だったが、今回は上位で走っているお陰で待ち時間ゼロ。それでもワックスの時間が惜しく感ぜられるのだ。超スタミナレースとは云っても、決してのんびりムードではない。
 先程抜かれた分と、今のロスタイムで2000位は大きく超えたと思われる。もちろん、マンモスレースだから正確な順位は分からないが、シードによってゼッケン番号が違うので、大ざっぱな位置は分かるのだ。実際、後から順位を調べて見たら(今はやりのチップという奴で給水所ごとの時刻順位が分かる)、この段階で2000位を超えてしまっていた。せっかくの第3シードもむなし。
 順位が駄目ならせめてタイムだけでも満足出来るものを、というのが弱り目たたり目の時の心理である。スキーはランニングと違って気温その他の条件で全然タイムが違う。現に、最近10年の優勝タイムは冒頭にも書いたように大きくばらついている。だから「優勝からどれだけ遅れるか」が問題となる。私の実力とスタート順位からすれば1時間半遅れというのが妥当な目標といえよう。昨年の優勝タイムが4時間15分。それより若干コンディションの良い今年は4時間内外だろうから、1時間半を加えて5時間半、最悪でも6時間というのが現実的な目標で、とりもなおさず「1キロ4分のペース」が最低限守るべきペースとなる。そのペースから「貯金/借金」という風に計算するのが一般的な計算法だ。今回の場合、スタート2キロの混乱で10分以上の借金が出来たものの、第2給水(24キロ地点)までにこの借金を全部返して、第3給水(35キロ地点)では逆に6分の貯金を作っている。これはいけると思った矢先に腹筋痙攣で大ブレーキとなってしまったのだ。そのあと13キロは4分1キロのペースがやっとで、6分の休みをとった第4給水ではついに借金生活への転落である。
 もはや2000位も6時間以内も絶対無理と分かった。第4組シード権の3200位以内もかなり怪しい。それどころか、この腹筋痛ではゴールにたどり着けるかすら分からない。たとい完走できたにせよ、、、。でも惰性で滑る。幸か不幸か7年前のタイムがあまりにも酷いので、それより悪くなければ完走価値は十分にあるのだ。棄権は全く動けなくなってから。とにかく中間点は過ぎているのだから。
 休憩後は長い下りである。全コースで最大の下り区間(-110m)だ。突っ立って滑る私は順位を落とし続ける。でも、そんな事はもはや気にならない。完走すればそれでよい。
 こっちが苦しいときは他人も苦しいと思え。これが長距離レースの原則である。実際55キロを越えると他の連中もスピードが鈍るらしい。下りを終えて平地に入ると、一番遅い「歩く」スタイルでも回りの「滑る」走法とあまり変わらなくなった。…希望。しかもワックス掛けのお陰で、登りでは抜く事もできるではないか。…よっしゃ! 人間とは不思議なものだ。いくら腹筋がどうにもならなくても元気が出る。西遊記の第42回を思い出した。妖怪の秘密兵器に痛めつけられた悟空が、その妖怪を騙し返して気分だけ回復したとき「嬉しい事に出会えば痛みなんか忘れてしまう」と放言したくだりである。人間観察の結晶した言葉ではないか。私もその例に漏れない。
 次の第5給水(62キロ地点)へは、第4給水を出た時とあまり変わらない順位で到着した。これは悪くない。タイムのほうも長い下りのお陰で貯金回復。悪くないどころか嬉しいばかりだ。ただ問題はこのあと。残り28キロはほとんど平坦である。再び「借金」になる事は間違いなかろう。今でこそ何とか「歩く」走法で頑張っているが、これは背筋が元気なればこそ。その背筋がいつまで持つかは分からない。…でも、これらはあくまで不安に過ぎない。とにかく一旦は諦めかけた第4組シード権(3200 位以内)が有望になったのは事実だ。6時間の目標だって大きく割れ込む事は無かろう。 …まあ、楽観過ぎるといえば楽観過ぎるが、そういう人間でないと、そもそもバサロペットは完走出来ないのかも知れない。
 給水所では、場内放送(ラジオをそのまま流しているだけだが)が「既にトップがゴールしている」事を伝えている。今着いたのか30分前に着いたのか知る由もないが、とにかく一部の人間にとってレースは終わっているらしい。まあ、私には関係ない。今の関心事は給水とワックスとそれによるロスタイムである。1キロ4分のペースに対してせっかく回復した貯金を目の当りにして、これを守れるだけ守ろうという煩悩が起ってしまったからだ。僅かのロスタイムが気になりだす。急いでパン1切れとブルーベリースープ2杯を摂り、ついでにワックス掛けを頼んで、そこまで全部で2分のロス。これだけ手際よくやっても150人ほどに抜かれた。再出発での貯金は約4分である。
 次の区間は登りが多い。ワックスの効果がそのまま現われて、腹筋をまったく使わないのに50〜60人抜き返した。こうなると、いかに疲労困憊と云えども気持ち良い。そのまま次の第6給水(71キロ地点)に滑り込む。時計を見ると4時間40分。残りが 19キロだから、未だに4分の貯金を維持している事になる。登りの多い区間で貯金が守れた訳だから、こうなるとゴールまで「貯金」を守る希望が湧くというもの。ワックスは調子がよいので、ここはブルーベリースープ2杯とパン1切れだけ(=私の標準給水)でそのまま通過した。給水にはスポーツドリンクも置いてあるが誰も目もくれない。
 回りにも「歩く」走法の人間が増えてくる。レースというより我慢大会といった様相だ。時に午後1時。早朝でこそ冷込んだ気候も、晴天に恵まれて応援日和となり、沿道には大量の人々が立ち並んでいる。なんでも5万人もの応援が道路もないのに出て来たとか。各種スポーツクラブの私設の給水も沢山あり(スキーレースではこれが許されている)、個人で勝手にいろいろ提供している人すらいる。それを見てふと7年前を思い出した。穴開き靴のせいで靴下が(替えを持ってきていたにもかかわらず)びしょびしょになり、ついでにワックスも酷くなったので、残り15キロ地点で脇で休んでいたら、親切な観客(もちろん見知らぬ人)が替え靴下を提供してくれたのである。おかげで最後の15キロは見違えるように速く滑ったが、実を言うと、給水所以外でスキーを外したら失格なのだ。現実には遅い連中の場合はその限りではなく皆がやっているのだが、厳密に言えば前回のは「完走」にはならない。そうなると、今回はきちんと完走すべきである。その意味でも棄権しなくて良かった!
 そういう思い出の場所を横目に、相変わらず「歩く」スタイルで滑って、いよいよ最後の給水(81キロ地点)に到着した。徐々にペースの落ちつつあるのは自覚するが、それでもこの10キロ区間で少し抜いたみたいで、この分だと、第4シードの確保はまず大丈夫だろう。第3シード(2000位)はとうの昔に諦めているから考えてもいない。気になるのはタイムだ。現在の貯金が3分半だから、さっきの給水で貯金をとり崩した以外はプラスマイナスゼロ。走行中は1キロ4分のペースを維持している。これなら最後まで貯金を守れそうだ。…6時間の可能性がようやく現実的なものとして見えてきた。残り9キロを39分で行けば良い。もっとも、油断は出来ない。過去の経験によると、いつ突然ペースが崩れる(1キロ4分から5〜6分へ)か分からないのだ。補給の時間ももどかしく、ブルーベリースープ1杯だけでさっと抜け、少しでもタイムを稼ぐ。時間を惜しむ理由にはもう一つある。実は62キロ地点での「トップのゴール」というアナウンスが気になっているのだ。
 バサロペットでは優勝タイムから5割増以内の時間でゴールしたスキーヤーにはメダルが与えられる。確かに表彰すべきタイムだからだ。耐久スポーツというのは、距離が延びれば延びるほどタイムのばらつきが広がる。例えば、陸上100メートル10秒の「世界」に対して、5割増のタイム(15秒)は大抵の人に可能だが、10キロ(28分)になると5割増の42分は結構大変で、マラソン(2時間10分)となると5割増の3時間15分は相当に練習をしても簡単には出ない。バサロペットはマラソンの更に倍の時間がかかるから、これで「5割増以内」のメダルをもらうのはマラソンを2時間50 分以内で走るのと同じ位の名誉と言える。
 今わかっているのは、62キロ給水(=4時間2分)の段階でトップが既にゴールしていたという事だけ。問題は実際のゴールがその何分前かと云う事。それが分からない以上、出来るだけ早くゴールするに越したことはない。
 それにしてもさすがにラストの区間は皆速い。さっきより飛ばしている積もりなのに結構抜かれる。ただし良いこともあって、腹筋の痛みが消えている。考えて見れば 48キロ地点からここまで2時間以上も腹筋を休ませているのだから回復していてもおかしくはないのだ。ただ、また痙攣を起こすのはいやなので、適当にあしらいながらでしか腹筋は使えないが、それでもペースが上がったのが実感できるから腹筋は有難い。結局ラスト9キロを33分で抜けて、晴れて5時間53分31秒のゴール。6時間の目標は達成した。
 ゲートをくぐると、メダルが順々に渡されているのが見え、どうやら私も貰えそうだと安心する。2つ目の目標も達成してこれは嬉しい。と、斜め上の電光掲示板が目に入った。見ると1980あたりの数字がどんどん増えていっている。えっ?もしかしたら2000番以内?こればっかりは結果を見るまで喜ぶべきではないが、どうやらそうらしい…
 望外の1954位。ぎりぎり第3シードの維持に成功した。この体調にもかかわらずである。ちなみに2001位が5時間54分44秒だから、あと1分15秒遅かったら2000位には入れなかった訳で(毎秒1人の割でゴール!)、最後9キロの頑張りはその努力が十二分に報われた。腹筋が回復してくれたお陰と言えよう。メダルのタイムはもっと余裕があって6時間2分(優勝が4時間1分)で、その順位が2238位。6時間丁度が2186位である。制限時間12時間のレースとは言いながら、その真中の時間のあたりは非常に混雑している。当初の大目標1000位(第2シード権)は5時間22分台で、これは幸運が重なってペースが維持されないと難しいタイムだ。要するに今後の良い目標といったところか。
 なお、日本人の参加はほんの数人で、その中では一番速いゴールだった。不惑の歳もなんのその、人生はまだまだ挑戦に満ちている。

2001年3月4日 「バサロペット」 山内正敏