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リハビリ記録その66

2008-5-11 (ギランバレー再発/オーストリア出張)
山内正敏

 初夏20度のオーストリアから雪融けの続く零度のキルナに一昨日もどって来て、今日は積雪のちアラレの降る天気です。天気はともかく、2ヶ月に及ぶ(身障者には)過酷な日程の最後のヤマを越えて、やや開放気分になっています。それにしても、前回の日本旅行レポートからの6週間に色々ありました。最大の事件は6週間前に始まった発熱とそれに続く呼吸困難(ギランバレーの再発?)です。

 39度の高熱に3日間悩まされたあと、風邪の症状(喉の痛みとか堰とか)が出ないままに、熱が収まったかと思うと、急速に呼吸が弱くなっていって、しかもその弱まり方が吐く方でなく吸う方(つまり横隔膜の筋肉)だったので、この段階でギランバレーの再発かも知れないと疑ったのですが、不幸にしてギランバレーは診断が非常に難しい病気です。案の定、昼に医者に行ったところ原因不明で返されました。返された所で呼吸筋が弱まるのが止まる筈も無く、夜に救急に行って、今度は強引に入院しました。
 強引といっても、こっちが酸素吸入を要求したのに、夜勤の若い女医(病院にしゅっちゅう行っている私が顔を知らないから、全くの新人)は、検査もせずに追い返そうとしたのですから、こんなヤブ医者の言う事を聞いて手遅れになっては馬鹿と言えるでしょう。話によると、私の入院した翌日には同僚の母親が骨折したのにも拘らず追い返したそうで、ここまで来ると薮以下の非常識ですが、いくら相手が分からず屋でもこっちは引き下がる訳には行きません。『ギランバレーの再発の可能』という切り札を盾になんとか入院にこぎ着けて一息つきました。実際、ハードスケジュールの日本旅行の一週間後、しかも発熱(前回は下痢)の終った直後に、筋肉が弱くなるという経過は、6年半前の発病時と共通、これだけでギランバレーの再発を疑うに充分であり、しかもギランバレーの再発率は普通の人が新たにギランバレーに罹る罹患率の10倍近くありますから、常識的な医者であれば入院させて様子を見るのが普通でしょう。
 そんな訳で、4月1日夜に入院したものの、例のヤブ医者が何も対処してくれないので、酸素吸入すらしてもわえず、結局、全く眠れない夜を過ごしました。眠れなかったのは、段々眠くなって意識がなくなりかける途端に呼吸も止まってしまって、息が苦しくなって目が覚めてしまうからです。要するに意識しないと普通に呼吸出来ない状態で、これでは眠れる筈がありません。もっとも、担当の看護婦は全員顔見知り(なんせICU-救急病棟には6年前に3ヶ月もお世話になりましたから)なので、そういう場所にいるというだけで安心感は全然違います。
 一睡も出来ないまま、翌日になると顔見知りの医者がやって来て、ようやく事態が動き始めました。看護師も全部知り合いで、しかも私がリハビリに熱心である事(=ちゃんと治療する価値のある患者である事)を知っている連中ですから、最悪の事態(=ギランバレーの再発)を想定していろいろ調べてくれます。ピークフローが1日で半減している事や、前回のギランバレー発症と類似の経過を辿っている事、ギランバレーの診断というのが困難である事などを考慮し、人工呼吸が必要になる前にウーミオ大学病院(最も近い大学病院で前回もそこに搬送されたけど、600キロも離れている)の神経内科に搬送するべきだという事が昼には決まって、夕方、無事にウーミオに運ばれました。私の方も、前日から5割以上の確率で人工呼吸を覚悟していましたから(そして、前回よりは軽症であるという確信もあった)、喋れなくなった時の為のアレンジを同僚にしっかり頼んで、これで何が起こってもOKという訳です。リハビリをきちんとしていて信頼を勝ち得ていた甲斐があったと言えましょう。
 ウーミオには救急飛行機で運ばれました。6年半前にウーミオから転院した時にも運ばれた事はありますが、この時は全身麻痺の上に人工呼吸と云う最悪の状態でだったので、飛行機の内部を実際に見たのは始めてです。非常に小さなプロペラ機で、医師看護師が3人とパイロット1人と私が乗れば、それだけで一杯で、私の車椅子を積む場所すらありません。そういう飛行機をウーミオ大学病院は2機持っているそうです。守備範囲が片道600〜700キロとなれば当然とは言えます。
 病状の方は、悪化が早めに止まり、人工呼吸をせずに済んだのは幸いでした。夜には昼よりも若干の改善が見られ、結局、睡眠薬を使って、弱い息のままに眠るという方法を取りました。今にして思えば、この方法を前夜にとってくれればと思いますが、あのヤブ医者にそれを求めるのは無理でしょう。翌日に検査を受けましたが、そもそも軽いギランバレーの場合に検査出来る事は殆どない上に、最も効果的な筈の神経伝導度試験が私のような後遺症の激しい人間の場合に不可能なので、結局、症状の改善をもって入院3日目に退院となりました。ギランバレーの確証がないので、病院側としては、カルテには『風邪による呼吸困難』としか書きようがありませんが、その後の回復(呼吸の回復は非常にゆっくりで1ヶ月程かかったけど、風邪の症状は全く現れなかった)などまで含めて考えると、ギランバレーの再発にほぼ間違いないと思います。ただし、再発と云っても前回の脱随/軸索障害併発型でなく、今回は脱随だけではないかと思います。
 原因については考えるまでもなく、日本旅行の疲れによる免疫低下で、ちょっとした引き金で免疫が神経細胞を攻撃してしまったのでしょう。ギランバレーに罹る条件に、抗体(カンプロ菌など)に加えて、過労による免疫低下が重要なファクターである事は(医学論文には全く書かれていませんが)患者の間では半ば常識で、その過労の効果が、私のような元患者の場合に普通の人よりも早く現れるのでしょう。花粉症の例えで言えば、睡眠不足で疲れた時ほど、そして、過去に花粉症にかかっている人ほど、症状が酷くなるのと同じです。

 3月の日本行きが今回の騒動の原因である以上、次回からの教訓にしなければなりません。6年半前に発症した時の原因である日本旅行との共通点を取ると
(1)東京(前回2001年も今回も東京の最終日に異常に疲れを覚えた)
(2)こっちが気を使う人がいる(前回は同僚+女性達で、今回は介護。前回の介護と違って放っておけなかった)
という訳で、次回の日本行きから当分の間は東京には滞在しません(成田のホテルに泊まる事は有り得ますが)。あと、介護も連れて行きません。東京で疲れた理由は、ホテルから散歩を楽しめるような場所が無い事に尽きると思います。宮崎でも福岡でも、自分一人(+現地介護)で散歩を楽しむ環境にあり、それがない東京では宮崎や福岡以上にフルにスケジュールを入れてしまいましたから。

 さて、高熱+呼吸困難騒動で、丸一週間の空白(正式には2週間の病休)となりましたが、前回のレポートにも書いたように、今年の四月はそんな休みを取れない程に多くの予定があり、そちらの処理が大変でした。結局、3年ぶりの科学研究費申請をスクラッチから5日で済ませ、更に今年からお鉢の回って来た宇宙審議会向けの予算申請書(こっちは同僚との共同)をこれまたスクラッチから1週間で済ませて、その間に研究会や学会(こっちは人に代理発表して貰うものだけど、ポスターなので準備が必要)、あっと言う間に4月も下旬となり、それから、やっと先週のオーストリア出張(発表2件)の準備に取りかかった次第で、どう考えても『常時25%の病休』+『2週間の完全病休』とは思えない4月を過ごしました。いくら休んだ所で仕事の総量は殆ど変わらないのですから。
 もしも呼吸困難がもう少しだけ悪化して、人工呼吸になっていたら、これらの全てがキャンセルになっていた訳で、もしかするとそちらの方が体には良かったのかなと思う事もありました。全てをクリアーした今だからこそ、人工呼吸の手前で悪化が止まって良かったと云えるのでしょう。
 なお、今回の騒動では私だけでなく研究所の所長や教授連も『予算申請に間に合わない』と思って肝を潰していたそうです。そういう意味では、もしも私に過労を押し付けるとギランバレーが再発して過労を押し付けた人間が酷い目に遭う、という事を皆さんに再認識させた事になります。そういう長い目でみると、再発自体は悪くなかったのかも知れません。なんせ、他人の目から見ると、週に正味20時間もリハビリ訓練をしている私は『完全復帰』に見えるそうですから(そう思い込んでいた同僚もいた)。その証拠に、毎年、何か新しい雑用を押し付けられている気がします。

 最後にオーストリア出張(5月3〜9日、グラーツ)の話を。
 前回のレポートにも書いたように、今回は車椅子でなく歩行器で出掛け、現地で車椅子を借りましたが、全くの正解で、よくぞ車椅子にしなくて良かったというのが第一の印象です。ホテル兼会議場は丘の上の昔の城を改造したもので、ホテルの中も坂だらけで、握力の無い私は、私用に特別にアレンジしたブレーキが無いと、とても昇り降りが出来ません。つまり、レンタル歩行器(=普通のブレーキ)では殆ど役に立たない訳です。また、飛行機の予約も歩行器なら問題ないのに車椅子だと席が取れず、予約では大きな違いがあります。しかも室内のトイレが身障者用でないため、手すりがありません。つまり歩行器が必要な訳です。もちろん建物内には身障者トイレがありますから、困る訳ではありませんが、不便には違いありません。もちろん、歩行器をレンタルする積もりでしたから、この点はどうにかなったかもしてませんが、ブレーキ方式が違うと、低いトイレから立ち上がるのは不便なものです。
 さて、歩行器を使ったお陰で、階段の昇降を何度もする羽目となりました。ケチの付け始めは行きのストックホルム空港で、介助の職員は来たのに、なかなか通路/階段用の特殊車椅子が来ないのに業を煮やして、職員の肩を借りて飛行機の機体の外に出たのを手始めに、殆どの空港で、少なくとも機体の入り口のすぐ外までは、車椅子なしで(肩にすがって)移動するようになり、そこで直接歩行器を受け取るなり、普通の車椅子に座るなりしました(乗る時は直前まで歩行器)。それだけでも大きな進歩です。それに加え、グラーツの発着便に至ってはプロペラ=階段昇降で、かつ、何故か通路/階段用の特殊車椅子がアレンジされていなかったので、日本での経験を自信に、特殊車椅子を待つ前に、空港の職員2人の肩を借りてさっさと登ってしまったり、尻を床に着けて降りたりして時間や手間をセーブしたしまいました。ハプニングの度に新しい経験をしている感じです。
 ハプニングと言えば、グラーツのホテルに着いた時もそうでした。なんと連絡ミス(僕が再確認しなかったのもありますが、予定より1日早く到着した事になったらしい)でレンタル車椅子が届いておらず、その夜は、車椅子無しで過ごしました。これが昨年なら少しパニクっていたかも知れませんが、今は研究所の経験や日本行きの経験で、車椅子がなくても、トイレに普通の椅子をおけばどうにかなるという自信があります。実際、トイレと洗面の近くにそれぞれ普通の椅子を置いてその夜は過ごしました。ただし、ひやっとしなかったと云えば嘘で、それはサンダルを持って来て良かったと云う事。床がツルツルで裸足や靴下では滑るので、サンダルを履かないと私の脚力では転倒の危険がかなりあります。と云う訳で、次回からはサンダルは必須品に昇格です。なお、車椅子無しで過ごせるとはいえ、あった方が室内移動に便利な事は確かなので、次回もレンタルを頼む事にします。
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